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Channel: 山猫軒日乗
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「ムンク展」(東京都美術館)

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 クリスマスイブの晩に、「ムンク展」観に行ってきました。
実は11月上旬にも行ってきたのですが、なかなか休みが合わない夫が観たいと言うので、再訪と相成りました。
 予想通り会場はふだんより平均年齢若め&カップルだらけで、展示室に入るまでに大行列で10分待ち。クリスマスデートにふさわしい展示かといえば微妙でしたが…。

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 ロビーには液晶パネルが設置されていて、画面が動いて別の作品に移り変わる展示を楽しめます。というか、写真ではわかりづらいですが、なかなかシュールなパネルでしたよ。

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「自画像」(1882年)

 ムンク19歳の自画像。若い頃のムンクは(意外にも)イケメンで女性が放っておかなかったようですが、後述するようにかなり女難の相でもあったようです。

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「硝子のベランダの自画像」(1930~1933年頃)

 カメラが普及した時代にあって、ムンクは今でいう「自撮り
」ポートレートをかなり残していて、精神病院でも、フランス革命の指導者マラーが風呂場で女性に殺されたシーンのコスプレ自撮り写真を残していたりします。ストーカー化した元カノによる銃の暴発事故で入院したのに懲りてないというか、自分大好きというか…(呆)現代ならSNSをせっせと発信していそうな人ですね。

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「死と春」(1893年)

 5歳で母を、14歳で姉を結核で亡くしたムンクにとって、その喪失体験は生涯を通じて作品の中に表れます。若い女性や男女の交歓の姿にも、死相が浮かんでいるように見えるんですよね。

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「夏の夜、渚のインゲル」(1889年)

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「夏の夜、人魚」(1893年)

 「叫び」に見られるような独特の色彩感覚は、ノルウェーの風土によるものが大きいのだろうなと感じさせる作品群。
 2015年夏にロンドンを訪れて驚いたのは、ヨーロッパでは夏の日没がとても遅いこと。夜9時頃までは黄金色の夕方がいつまでも続いているような明るさなんですよ。インゲルと人魚の絵も、白いドレスや人魚の肌がほんのり薔薇色をおびた黄金色に染まっていて、まさに「夏の夜の夢」の雰囲気です。

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「渚の青年たち」(1904年)

 ドイツの眼科医リンデの子供部屋用に注文を受けて描かれた作品。完成した絵を受け取ったリンデ夫妻は出来ばえに満足しなかったといいます。そりゃそうでしょう(笑)。というか、何故よりによってムンクに頼んじゃうかなあ。
 解説には「オーダー間違った事件」のオチが書いていないけれど、結果として子供部屋にこの絵を飾ったのかどうかが、すごく気になりました。

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「叫び」(1910年?)

 個人的な話だけど、私の恩師が某アイドルの熱烈なファンでして、彼女と芥川賞作家の結婚ニュースが流れた日に「叫び」のポストカードを買って、先生に「傷心見舞い」を送ったことがあります。数日後、「お気遣いありがとうございます。まだ希望は捨てていません。どうせ長続きしないと思っているからです」という旨の返信をいただきましたっけ…。
I先生がムンク展のポスターを見て、教え子のことを思い出してくれたらうれしいです。(以上、「先生と私」でした)

 ムンク=「叫び」というだけあって、「真珠の耳飾りの少女」状態(立ち止まって鑑賞できない)の大行列でした。
 私は「叫ん」でいるのは、手前の人物だと永らく思っていましたが、実は、「自然が叫び、両耳をふさぐ人物に襲いかかっている」場面なのだそうです。

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「赤い蔦」(1899~1900)

 手前の男性のモデルは、ムンクの愛人であったダニー・ジュエル・プリッツィーヴェスの夫。赤い蔦が血のりのように見える家も不吉で、ただならぬ表情の夫の背後の家の中で何か怖ろしいことが起きたのだと思わずにはいられません。実際、この絵が描かれた数年後、奔放なダニーは若い愛人にピストルで射殺されてしまうといういわくつきの作品なのです。
 1900年前後といえば印象派の活躍した時代。その時期に遠近法を無視した点では同じでも、実存の不安や嫉妬などのネガティブな感情をテーマにしたムンクの登場は衝撃的だったんじゃないかと想像します。印象派ですら受け入れられなかったベルリンでの展示はさんざんな評価だったものの、逆に注目を浴びて支援者も現れたというのだから、時代が求めた画家だといえるのでしょうか。

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「マドンナ」(1895/1902年 リトグラフ)

 生命の始まりであり、死への一歩でもある、男女の交歓の瞬間に在る女性を描いた「マドンナ」。煽情的に身をくねらせながらもその顔には死の翳が差しているように見える。モデルは「赤い蔦」のダニーといわれています。個人的には精子と胎児のフレームがない方がいいんじゃないかと思うけど…。「マドンナ」はリトグラフで量産された作品で、油彩などかなりのバージョンがあるそうです。

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「森の吸血鬼」(1916~1918年)

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「目の中の目」(1899~1900年)

 「吸血鬼」というタイトルをつけたのはムンクではないという説もあるそうですが、男女の愛欲&嫉妬を描いた濃厚なコーナーの中では、やはり女性に吸い取られているとみた方がいいような気がします。
 ムンクは女性の髪を性的な対象としてとらえていたようで、「森の吸血鬼」「目の中の目」「女の髪に埋まる男の顔」など、女性の長い髪が触手のように延びて男性に絡みついている描写が、きわめて生々しく不気味な作品が多い。クリスマスデートに観て大丈夫なんですかね…(←よけいなお世話)
 女の髪といえば、漱石にも『こころ』(1914年)で先生が青年に対して、「君、黒い長い髪で縛られたときの心持ちを知っていますか」と言う場面があるのを思い出しました。
 洋の東西は違えど、近代化が進む時代において、女の「謎」は、長い髪に絡みつかれる男にとって、創作上の大きなテーマだったのでしょうか。

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「犬の顔」(1942年)

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「皿にのった鱈の頭と自画像」(1940~1942年)

 息詰まるような男女の愛憎コーナーを過ぎて、ようやく晩年の日常風景が続きホッとしているところを狙ったかのように、終盤に現れる作品たち。
 何気ない日常のひとコマのはずなのに…ワンコの顔がどう見ても人の顔に見えてしまう…鱈の頭が髑髏にしか見えない…。
老いてなお、ムンクは最後までやはりムンクだったのだなあ。

 最近、草間彌生や小松美羽の著作を読む機会があって、両者に共通する点として「他の人には見えないものが見える」能力が取り上げられていたけれど、ムンクにもそうした目があったのでしょう。
 アーティストというのは、(病的なものも含めて)「見えてしまう」感覚自体も能力になるのだろうけれど、それ以上に「見えてしまう」ことで直面する「生きづらい自分」を創造に昇華していける(あるいは昇華しようとする)力こそが、〈普通のひと〉と違うのかもしれないと思ったのでした。


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