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Channel: 山猫軒日乗
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N駅近くの風景

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「N駅近く」(1940年・油彩・個人蔵)

 盛岡の古本屋で買った分厚い図録を読んでいるうちに、松本竣介が歩いた街の面影を辿りたいと思うようになってきた。

 松本竣介は少年時代を岩手県で過ごしているものの、年譜や家族関係、作品のモチーフから、本質的には都市生活者の感覚を持った東京人であったといえる。竣介が上京した1920年代末の東京は箱根土地(後の西武グループ)による郊外住宅地の開発が進む一方で、地価の安い池袋周辺(現在の西武池袋線・椎名町~要町)には池袋モンパルナスと呼ばれるアトリエ村が存在していた。 

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(1940年頃、落合のアトリエで。「N駅近く」を背景に)

 上京した竣介、兄、母を追って父親も数年後には盛岡貯蓄
銀行の仕事を整理して上京し、一家は今の原宿あたりに住んでいた。竣介は池袋モンパルナスの一角「すずめが丘アトリエ村」(現在の西武池袋線・椎名町)で画学生仲間と共同生活を
したのち、松本禎子との結婚で落合(現在の西武新宿線・中井)に転居し、生涯を落合のアトリエで過ごすことになる。
 都市開発の進む昭和初期の東京で、山の手から下町へ、ふたたび山の手へ。生家の佐藤家は盛岡藩士、松本家は松江藩士の出でともに地方の士族出身であったのに加え、禎子の父親は慶應義塾予科の英語教授、母親は東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)卒業で、娘たちを自由学園に進学させる知識階級だった。
 こうした育ち・生活環境は当然創作内容に影響を与える。(現在でも「東京のどの地区に住んでいるのか」という話題は、ある種の品定めを意味することが多い)
 都市論から近代国文学を論じた故・前田愛ではないが、竣介の歩いた道を辿って、都市小説論ならぬ都市絵画論として竣介の作品と東京を歩くという「旅」も面白いのではないか。いささか背伸び気味ながらそんなことを考えた。


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 1923年頃の目白文化村分譲案内の絵葉書
(出典:「落合道人」http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-06-25

 現在の世田谷区かと見まがうモダンな「目白文化村」。
 目白文化村とは、「箱根土地」(西武グループ)の創立者・堤康次郎(清二と義明のパパ)が1914年に落合村の地主から土地を買い取り、1922年に分譲を開始した「郊外住宅」。そう、落合とか中井って「郊外」だったんですよ!新宿や目白から近いけど。そもそも新宿が「都心」になったのは戦後だしね。
 田園調布に先立つこと2年、分譲開始された目白文化村は電気・水道・ガス・下水道の設備を整え、テニスコートや相撲柔道道場などの施設もあり、1927年には西武新宿線が開通して交通の便が格段によくなるなど、箱根土地は相当力を入れたようです。
 しかし、1935年に山手通りが開通して文化村を縦断。東京大空襲で大半の住宅が消失し、さらに1967年の新目白通りの開通で一帯は縦横に分断され、現在では戦前の面影はほとんどなくなったという。


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 落合周辺は坂が多い街で一の坂から八の坂まである。写真は松本竣介のアトリエに続く、四の坂。手前は林芙美子旧居。

 1936年に松本禎子と結婚した竣介は、松本家とかかわりのある島津製作所社長夫人の所有していた落合の高台に新居を構える。東京大空襲で中井駅周辺は大半が焼失したものの、四の坂の高台は奇跡的に戦火を免れたおかげで、無名の画家だった竣介の作品は世に残ることになる。
 1948年に竣介が亡くなった後も家族はこの街に住み続け、
1973年頃に老朽化で建て替えるまでアトリエも生前のまま残していたという。禎子夫人のインタビューで「亡くなった後7年くらいは油絵具の匂いが残っていたけれど、匂いがすっかり抜けたときは本当に寂しかった」というくだりが心に残る。


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 写真のように、少しずつ右にずれ込むように坂を上がるので、坂の下からは頂が見とおせないようになっている。なんとなく、よそ者は入りづらいお屋敷町の名残がある。 


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 自宅を出てスケッチに向かう竣介が目にしたであろう風景。
 松本邸を見つけたとき、ああこの場所で「雑記帳」や「立てる像」が創られたのか…と思うと感慨深かった。ほんの数年前まで松本竣介を最もよく知る人もこの家で暮らしていて、綜合工房名義で画集を刊行していたのである。公開の記念館やアトリエ跡ではなくて、生活の場が続いている方が、かつてここにいた人の気配を感じることができるような…。
(以上、30秒くらいで頭を駆け巡ったこと。それ以上家の前に立っていたら不審者だからねww)


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 四の坂を下りて中井駅に戻ると、昔ながらの商店街がずーっと続いていて、ちょっと路地を曲がると戦後のまま時が止まったような木造の小屋みたいな家が残っている。
 オリンパスPEN lightアートフィルター機能で撮影。白日夢ような、うつつとも幻ともつかない雰囲気がいい。

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 中井駅のすぐ横を流れる妙心寺川。この界隈はかつて染物が盛んで、今も川沿いに染物工房が点在している。2月にはこの川に染物がばーっと広げられるイベントがあるらしい。
 こうして歩いてみると、やはり住宅地において物理的な高低差は所得差とそのままつながっているのですねえ。帰りに駅前の不動産屋で物件情報を見たら、西武新宿駅から二駅だけあって中井はやっぱり高い!一方で、この新宿からの近さが災いしてか、文化人が多く住んでいたという割には喫茶店や書店が寂しい限り。まあ、竣介や林芙美子がいた頃はジュンク堂もスタバもドトールもないけどね。。

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