新年度に入って怒涛の一週間がようやく過ぎた。
昨日の夕方、職場の先輩方から「長い一週間だったね」「今夜はゆっくり休んでね」とねぎらわれて、ほっとひと息。帰宅してすぐシャワーを浴びて、連続10時間眠り続けた後のすっきりした目覚め(健康な証拠)に感謝。
繁忙期は本を買う頻度が高くなる。一日じゅう仕事に追われていてはどこにも行けないからだろうか、せめて本の中だけでも外の世界にふれたいという気持ちが強くなる。
こういう時にAmazonは本当に便利だ。紙の本はコンビニ受取で何時に帰宅しようと確実に受け取れるし(時間指定配達は意外と非効率)、それすら億劫になったらkindleでサクッとダウンロードすればすぐ閲覧できる。
ネット古書店もフル活用。先日は松本竣介の遺稿集「人間風景」(平成2年・中央公論美術出版)を買った。
いちばん古い文章は昭和3年8月。油彩画「風景」の裏面に記された一文。12月17日付「岩手日報」には「天に続く道」という詩を発表している。その年の春、佐藤俊介は父からカメラと現像焼付道具一式、兄から油絵の道具一式を買い与えられたばかりだった。
二年前の旧制盛岡第一中学校の入学式の晩に流行性脳髄膜炎を発症して聴力を失った俊介は、難聴のまま復学するものの翌年に一年次に再度在籍。エンジニアになるという夢を絶たれた彼にとって、絵筆とカメラは文字通り新しい世界への道を示してくれるコンパスだったのだ。そして、もともとかなりの読書家だった竣介にとって、文章を書くという行為もまた絵筆を執るのとほとんど同じ意味を持っていたことがわかる。
「人間風景」は盛岡時代に岩手日報に掲載された短文、上京後に兄彬が設立した雑誌「生命の藝術」、妻禎子とともに創刊した「雑記帳」の他にも美術誌や日記、書簡などが収録されている。20代前半の「生命の藝術」や初期の「雑記帳」などは、同人誌のような、といってはなんだけど「…若いなあ~~」という熱意が先走った青臭い文章が多い。
全体を通して、描(書)きたいことがあとからあとから溢れてくるといった印象で、そうした表現行為への渇望は長い戦争の時代にいや増したのだろう。
死の4年前、彼は名前を「俊」介から「竣」介に改め、翌年には通信教育事業を手がける。それまで兄や妻から「守られる者」から家族を「守る者」に変わろうという決意の表れだったのだろうか。あの時代の男性にとって、出征できないということは、現代の「働きたいのに働けない」状態以上に身の置き所がなかったという背景もあったに違いない。彼もまた時代の規範の中で生きる一人だったのだ。生活を支えるために昼間は通信教育の仕事に追われ、帰宅して夜遅くまで筆を執る生活は戦後の物資不足の中、竣介の健康を蝕んでいった。
時代こそ違うけれど、「やるべきこと」を優先しているうちに「やりたいこと」ができないまま日々を過ごす生活を送っていると、竣介の切実な気持ちが行間からひしひしと伝わってくる。70年以上の歳月を隔てて、描き書き続けることで不条理な現実や困難な生活を生きてきた彼が、強く美しく感じられるのだ。
絵筆をかついで
とぼとぼと
荒野の中をさまよへば
初めて知った野中に
天に続いた道がある
自分の心に独りごといひながら
私は天に続いた道を行く
(「岩手日報」昭和3年12月17日付)